■③ 【前半】第2回サイレントアピールに参加した会員一人一人の思いと私たちの決意

【前半】
 「第2回サイレントアピール」について

 私たちは第2回目となるサイレントアピールを、平成28年1月9日(土)、朝10時から11時までの1時間、創価学会本部の広宣流布大誓堂前で行ないました。
 今回掲げたメッセージは、1回目に掲げていた、
『 安保法制の容認は 創価三代に 違背している 』
『 安保法制の容認について 「師匠の了承」の有無を 公表すべき 』
の2つとともに、
 新たにもう一つ、
『 北朝鮮の水爆実験 「抑止力」は創価三代に 違背している 』
とのメッセージを掲げました。
 この日の直前の1月6日、隣国の北朝鮮は水爆実験を行ないました。その報道を見たときに、日本の安保法制推進に呼応して、周辺国が「自衛的措置」「合法的権利」を口実に武力、戦力を拡大・誇示することに拍車がかかったように感じてなりませんでした。

 師匠は明確に仰っています。
「不信や恐怖に依拠した抑止論的思考を拒否する──との立場は、核兵器の使用を絶対悪と断じた戸田第2代会長の『原水爆禁止宣言』を貫く思想と相通じています」
「仏法では、生命主体と環境世界とが不可分に繋がり合っているという『依正不二論』を説きますが、その法理に照らしてみても、核兵器による脅しをかけられ、不安に揺れ動く心から、平和がもたらされるわけはないのであります」と。

 軍事力を使った「抑止力」(暴力的手段)では、平和は構築できない。それどころかさらなる暴力を生む。師匠は、平和を構築するためには、平和的手段(非暴力)による以外にないと明確に仰っているのです。つまり、安保という抑止力を師匠が了承することは絶対に、絶対にあり得ない。

 当日は、私たち3名以外にも、地元組織で不当な対応をされ続けている会員同志の方々が参加してくれました。集ってくれたお一人お一人が、今の創価学会に対して危機感を感じていました。本当に心強く思いました。午前10時少し前に大誓堂前に到着すると、その日は大誓堂で大きな会合があり、多数の会員の方々が訪れていました。
 また、その日の午後に豊島区・巣鴨の東京戸田記念講堂で1月度の本部幹部会の本番があったためか、多くの本部職員が大誓堂前を歩いていました。
 私たちは早速、横断幕を掲げてサイレントアピールを始めました。

 多くの会員の方々が、横断幕に掲げられたメッセージを読みながら通過して行かれました。横断幕を見て頷きながら通過する方、立ち止まって読まれる方、「無視、無視」と言いながら通り過ぎる方もいました。
 いろいろな反応がありました。しかし、多くの方々が学会本部の安保法制容認に対して、少なからず疑問を抱いているように感じてなりませんでした。

 しばらくアピールを続けていると、驚いたことに小平が九州で勤務していた時に、対話を懇願し続けていた愛媛総九州長が、前から歩いてくる姿が見えたのです。小平はこんなところで愛媛さんと出会う仏法のあまりの不可思議さを感じてなりませんでした。そして小平は「愛媛さん!」と声をかけました。何度も対話を懇願してきた愛媛さんと“もし会話をすることができたなら”と思ったのです。
 しかし、愛媛さんはこちらに気付いた途端に視線を逸らし、聞こえない様子で足早に去っていきました。
 そして、さらに不思議なことが起こりました。今度は滝川が神奈川で勤務していた時の上司であり、平成21年に私たちに対して役職解任処分を通知した高知副会長が前から歩いて来たのです。
 何度も対話をお願いしてきた高知副会長。滝川は“もし会話をすることができたならば”との思いで声をかけました。「高知さん、お久しぶりです!」と、しかし高知さんは、全く聞こえない様子で、一度も振り向かず目の前を通過していきました。滝川は通過して行く高知さんの後ろ姿を見つめていました。
 すると高知さんを見つめる私、滝川の姿を見て、マスクの奥から声を出して笑っている人がいました。今回「私も参加したい」と駆けつけてくれた私の母でした。
 大勢の会員さんがサイレントアピールをしている私たちを見ている中、私を見て笑っている母。
   滝川 「何笑ってるの・・・・」
    母 「(笑いながら)そうやってずっと“対話をして欲しい”と、話しかけて来たんだなって思って」
   滝川 「だって対話でしょ。万が一でも、対話してくれる可能性があるかもしれないでしょ」
    母 「(笑いながら)だって清志に対する本部の制裁を認めた人なんだから、除名だって認めているんだから、会話なんてしてくれるはずないでしょ」
   滝川 「まぁそれはそうだけど・・・」

    母 「でも清志は絶対に正しい」

 この温かい母は、入会して50年の一婦人部であり、入会当初は両親の大反対に遭いながらも必死に信仰を磨き、看護師として働きながら二人の息子を育ててきた。
 このサイレントアピールへの参加は、師匠のおっしゃるとおりに生きようとする母が、目の前で起こっている学会本部の安保法制容認という現実と向き合った時、自分の命を何のために使うのかを考えた末に決断したものだった。

 母は、今から13年前の平成15年9月、スキルス性の乳がんと宣告され、「年内もつかどうか」と告げられる。突然、突きつけられた余命3カ月。現役の看護師であった母はそれがどれほど厳しい病状であるかを誰よりも理解していた。
 私はもう死ぬ、そう思い遺書を書いた。御本尊に向かい題目を上げなければその不安に押し潰されそうになった。必死に祈る中で湧き起こってくるのは、「私は何のために生まれてきたのか」、「私の人生は何のためにあるのか」という思いだった。
 「私の人生は広布のためにある」そう思いながら生きてきた。しかし、今の自分は題目を上げなければ、死の恐怖に押しつぶされそうになる。心にある何かが定まらなかった。毎日、毎日、題目をあげ続けた。祈らなければ前に進めなかった。
 そして祈り続ける中、ある時こう思う。
 「残りの人生を、師匠のおっしゃるとおりに生き抜こう。それが一番後悔のない、自分が納得できる人生だ」と。
 “偉大なる師匠の弟子でありたい”と心から願う母である。当然と言えば当然過ぎる弟子としての結論である。しかし、その深さが違った。

 平成16年2月、母は乳がんの手術を受ける。手術前後に合計8クールもの強烈な抗がん剤との戦いを経て、長く過酷な闘病生活が始まる。手術は成功した。しかし、がん細胞はすでに全身に散らばっていた。いつ再発するか分からない。
 生きるか、諦めるか、諦めれば死が待っている。母は絶対に勝つと決めた。
 そして、さらなる試練が母を襲う。
 平成20年4月、息子が学会本部に呼び出され、本部指導監査委員会の監査にかけられることを知る。そして、本部が決めた結論に従わなければ(誓約書に誓約しない)役職解任処分となってしまうと聞かされるのである。
 「息子を先生のお役に立つ人間に」それだけを願ってきた母。本部職員である息子が処分されてしまう。病魔だけでなく、次々に容赦なく襲ってくる苦難の嵐に心が折れそうになった。
 祈るしかなかった。ただただ、必死に、必死に。
 そして母はこう思う。
 “自分がずっとこの目で見て来た息子である。そして、「師匠のおっしゃるとおりに生きたい」と誓う息子の同志たちである。何があっても自分は目の前の息子を信じ抜こう”と。

 地元組織の幹部が自宅を訪れた。そして母に伝える。
 「息子さんたちの問題は詳しくは分からないが、会長の決めたことに従うように息子さんを説得してほしい」と。
 しかし、母は幹部の話を聞きながら思う。
 “解任されるほどの重大な問題にもかかわらず、幹部が「私たちも詳しくは分からない」と言う。そんな無責任なことがあるか”と。
 そして、母は勇気を出しこう伝える。
 「私は“誓約して欲しい”と息子を説得することはできません。私は、息子は正しいと思っています」と。
 息子の戦いを見てきた母である。誓約を説得することは自分を誤魔化すことになる。しかし、説得することを断ればこれから起こるであろう難は容易に想像できる。しかし、母はそれでも苦難の人生を選んだ。そして説得を断ったのである。

 誓約書に誓約しなかった息子たちは学会活動を謹慎処分となる。その後、全役職解任処分となった。
 すると、母に対して、某総区長たち3名の幹部が家を訪れる。そしてこう徹底する。
 「息子さんの事を組織に一切話してはならない。聞かれても答えてはならない」と。
 それ以後、母に対して組織からの連絡はほとんどなくなった。会合連絡も、座談会の日程と本幹同時中継の入場券がポスティングされるだけとなる。

 母は、家を尋ねてくれる地元の身近な幹部から、「『(息子さんは)会長の指導に従わなかったから処分された』と聞いた」と聞かされる。
 “ずるい、こんなやりかたは絶対にずるい”

 そもそも、その「会長の指導」とは何なのか、現場の幹部は誰も知らない。事の経緯や内容を一切知らせずに、“「会長の指導」「本部の決定」に従わないことが問題である”とされている。ただ問答無用に従わせようとしているように感じてならなかった。今の創価に公平な「対話」が見失われていっていると思えてならなかった。
 母は負けない。原田会長に手紙を書くことを決意する。
 原田会長に「解任を決めた理由を説明してほしい」「一度話をさせて頂きたい」と手紙を書く。何とか一度でも原田会長と話が出来ればとの思いだけだった。しかし、返答はなかった。
 それでも母は戦いをやめない。
 さらに名誉会長の秘書である長谷川副理事長(現・理事長)や御子息の宮城副会長、某総合婦人部長にも手紙を書くのである。むろん、返事はなかった。
 そして平成23年6月、母は、本部職員の甲府総神奈川長と福井総県長の2人と話す機会をつくることができた。
 その際、その2人に原田会長への言づてとして、“会長が息子たちの解任を決めた理由を説明して頂きたい”とお願いした。
 すると、甲府総神奈川長は、母に対して真顔で言い放つ。
 「会長は偉い人なんです!わかりますか!」と。
 母はとっさにこう答えた。
 「そうは思いません!」
 その言葉に、甲府総神奈川長は絶句し青ざめたという。

 「会長は偉い人」だから身分を弁えて発言しろと言われているように感じた。“池田先生なら、池田先生ならこんなこと絶対に言われない!”悔しさに涙がこぼれた。
 息子たちが学会本部の中で向き合っている、権威化した「対話なき本部」の実態を肌身で実感するのである。
 母は決意する。
 「私は生きて生きて、戦って戦って、『青年達のすべての大勝利を見届けるまでは死ぬものか!!』」と。
 あまりに偉大な創価の母である。感謝してもしきれない。この母から生まれることができたことが私の最大の誉れである。

 平成24年10月、さらなる難が母を襲う。
 学会本部から、息子が話し合いを求める行為を理由に、即時懲戒解雇を下されたのである。
 息子から話を聞いた母はすぐには信じられなかった。対話を求めたら、一度も対話せずに懲戒に掛け、懲戒解雇処分で切り捨てる。そんなことが創価学会の中で現実に行なわれた。怒りと悔しさで御本尊の前で涙が溢れた。

 息子が学会本部から懲戒解雇を受けると、母はさらに組織から距離を置かれる。そして経済的にも厳しい状況となる。
次々と襲いかかる難に、見守ってきた滝川の父の心に変化が起きていく。
 「たとえ手紙を出しても会長からの返答はこない。握り潰されて終わるだけで本部は変わらない」と。
 そして戦いをやめるべきだと言い出すようになる。母はさらに苦しい状況に置かれていった。
 父は、入会直後に脊髄腫瘍が発覚し、手術をしても寝たきりになるなど社会復帰は望めないと言われていた。しかし、手術は成功し、数年後には社会復帰を果たし定年まで働くことができた。信仰の力を感じてきたのである。
 その父と母は、人生の苦闘を乗り越えてきた戦友であった。
 「池田先生の言われている通りの学会に私たちがしていかなければいけない」共に原田会長に手紙を書くなど二人三脚で戦い生きてきた。
 その父が「諦め」を口にし始めたのである。
 そして、「諦めない」息子たちを「動いても変わらない」と非難し始めたのである。
 母は、何度も父と話し合う。そのたびに父は、「息子たちを応援する」と変わるが、翌日になると、「やっても無駄だ」とガラリと考えが変わってしまう。
 難を受ける度に変化する父の心に、母は悔しさに涙が込み上げた。
 「私は負けない。絶対に負けない!」
 遅くまで題目をあげる日々が続く。
 母は、夫が息子たちを非難することをやめさせたかった。自分は何の行動もすることはなく、無責任な非難を繰り返していく。そのおかしさを何とか夫に気付いて欲しかった。
 母は、父と何度も何度も話し合う。
 しかし、父は、“どんな苦難にも立ち向かい、何があっても師匠の仰せどおりに生きる”と誓った母と同じ生き方をすることができなくなっていく。
 父は、病を完治し、40年働いた。だから、そこまでやる必要はないとの思いが口に出るようになる。
 常に再発を意識し、生涯戦い続けることを誓う母との間で、いつしか大きな隔たりが生まれる。それでも、母は父との対話を続けていく。
 しかし、父はついにその母をも批判するようになる。
 「こいつ(母)には何もしてもらったことはない。今後も何もしてもらおうとは思わない」と。
 母の存在を知人のいる前で否定するようになっていくのである。
 戦う心を失った父には母に対する感謝の心すら無くなっていた。
 母は、37年間共に生きてきた父と離婚を決断する。
 “私には絶対にやらなければならない戦いがある!”

 自らは病との戦いがある中、息子が懲戒解雇になり、その直後に、37年連れ添った夫と離婚。
 母に、苦難の嵐がこれでもかと襲い続けた。
 しかし、母に悲壮感はなかった、むしろ息子の前では常に笑顔だった。
 離婚を決意した母に、息子は母を巻き込んでしまった申し訳ない気持ちを伝えたことがある。
 すると母は言った。
 「私とお父さんのことです。成人した清志には関係ない!私は私が正しいと思うことをしている。清志は清志の戦いを先生の仰せ通り、最後の最後までやり抜きなさい!!」
 こんな苦しい環境でも気丈に振る舞う母。自分を励まそうとする母。母が一番辛いのに。「やり抜きなさい!!」母の強き言葉に、涙が止まらなかった。こんなにこんなに涙がでたことはない。生涯、絶対に忘れることは無い。

 母はあまりに偉大である。創価の母は何があっても戦いをやめない。
 原田会長に再び手紙を書くことを決意する。
 書いては修正し、修正しては書いた。そのたびに、クシャクシャに丸めた書き損じの草稿でゴミ箱は一杯になった。ペンを持つ指も赤くなりタコが出来た。老眼鏡をかけた目もかすむ。それでも、何とか会長の心に訴えかけようと必死に書き続けた。
 ただただ「青年達の声を一度でも聞くべきである」と。

 しかし、平成26年5月3日に原田会長に手紙を出した直後の5月8日、息子たち3名に創価学会員であることすらも許されない除名審査の呼び出し通知が送られる。そして6月18日に除名処分が決定するのである。
 母は怒りと涙で胸がいっぱいになる。これが会長の返事かと。一度も話を聞かずに除名かと。
 徹底的に息子たちを排除することを目的とした、結論ありきの処分ではないか!!
 母は不当な処分であることを原田会長に訴えようと、7月、11月、息子への処分の不当を訴え、原田会長に必死に手紙を書き続けた。
 しかし、原田会長から返事が来ることは一度もなかった。
 そして、平成27年1月、なんと母に乳がんの全身への骨転移が発覚するのである。一番恐れていた再発である。

「難があればあるほど、信心の炎を燃え立たせていくのだ。襲いかかる難を勝ち越える時、大海のごとき、悠然たる大境涯の自分になるのである」(名誉会長指導)

「人生には、暴風雨があり、暗い夜もある。それを越えれば、苦しみの深かった分だけ、大きな幸福の朝が光るものである。一番、悲しかった人が、一番、晴れやかに輝く人である。運命を価値に転換してほしい。その人が人間としての勝利者である。王者である」(名誉会長指導)

 師匠はいつも私を必ず支えてくれる。師の温かさに涙がこぼれた。
 担当医は、余命について明言を避ける。しかし、スキルス性の場合の症例を調べるとほとんどが3カ月以内に亡くなっている。
 平成16年2月の手術以降、11年が経っていた。それ自体奇跡である。功徳以外ない。
 しかし母は常に死と隣り合わせに生きてきた。もう弱音を吐いている暇はなかった。「やるべきことがある!負けるわけにはいかない!」
 すぐに治療を開始する。次に迎えた診察日、担当医が検査結果を見ながら興奮している。
 なんと劇的に数値が下がり、骨転移した箇所にも改善が見られたのだ。まだ、まだ私は生きられる!!師匠と御本尊にただただ感謝しかなかった。その感謝に涙が溢れた。
 生きれるならば戦える!!
 同年4月28日、手紙を書く母の手に力がこもる。
 “なんとしても原田会長に青年たちと対話してもらわなければならない!”

 しかし、手紙を書き続ける母に、組織の処分の手が、近づいてくるのである。
 3カ月後の7月23日、突然母に、会ったことも話したこともない本部職員の名古屋総区長から電話がある。
 8月2日、指定された会館に行くと、名古屋総区長の他に、本部職員の大津総区書記長や某総区総合婦人部長が同席していた。
 3人に囲まれ面談が始まる。
 名古屋総区長から「除名者と勤行をしているのではないか」と詰問される。
 名古屋総区長は「除名された人は、学会から、“あなたたちは学会に迷惑をかけたので、学会を除名します”と、そういうふうにされた方です。そういう方たちと、一緒に信仰活動するっていうのは、これは問題がある」
 母は「自分が見てきた青年達は除名されるようなことをしたとは考えられない。一度話を聞くべきではないですか。」
 そして3名の幹部は、誰一人、除名になった青年たちと直接話をしたことがないことを話す。会って話したこともない青年を除名審査に掛けて、除名処分を下す。母は、そのあまりに無慈悲な、結論ありきで排除するおかしさを必死に訴えた。
 「会ってもいないのに除名っていうのはおかしい!」と。
 しかし、総区幹部はそれには答えない。
 そればかりか、大津総区書記長は、「学会の正式な機関が決めた除名は間違ってますか!」「学会の判断は間違ってますか!」と、10回以上も繰り返し問い詰めるのである。
 もはや脅しである。組織を使ったいじめである。
 大津総区書記長は、どうしても「学会の判断は間違っている」という言葉、言質を取りたそうであった。
 大津総区書記長は本部職員である。母は、以前、本部職員の甲府総神奈川長から、「会長は偉い人なんです!わかりますか!」と言われた言葉を思い出す。都合の悪い質問には答えず、威圧的な言葉で相手を抑えつける。全く対話にならない。あの時と同じだと思った。
 人間を信じる心も、青年を育てようとする師匠の精神もまったく感じられない。ただ「分断」「排除」の2文字しかない。
 こうして地元地域では、息子も含め次々と除名処分が繰り返され、今では除名者が8名にものぼっている。皆、本部職員が起こした問題に声を上げたがゆえの処分であった。

 母は原田会長への手紙に以下のように書く。
「名古屋さんや大津さんは本部の職員だと聞きました。その二人とも、一度も青年達に会ったことも話をしたこともないのに、除名です。前代未聞です。
 会長、本部の幹部職員の中では、これが『常識』になっているのでしょうか。
 三代にわたる師弟の学会の魂は、『対話』なのではありませんか?『対話』こそ学会の生命ではありませんか」と。
 3名の総区幹部との面談で体験した地元幹部の対話ができない実態は、原田会長が手紙を無視し続けるように“対話なき学会本部の体質”から波及しているように感じてならない。
 母は、息子たちが解雇になって以降、原田会長に9通に渡る手紙を書いている。しかし、いまだに一度も会長からの返答はない。

 母は思う。対話ではなく、力ずくで人間を動かそうとする創価の体質。この体質が政治の世界でも「抑止力」という力で抑えつける考え方を容認することに繋がっているのだと。
 こうした中、息子からサイレントアピールを学会本部前で行なうことを聞くのである。
 母は、語る。
 「『建設は死闘、破壊は一瞬』だ。今こそ具体的な行動を起こさないといけない」と。母は、ただただ悔いなく生きたい。その思いで横断幕を掲げた。
 母の祈りと決意は深かった。
 「師匠が望まれる対話のある創価に変革するまで私は生き続ける!」
 師匠の模範の弟子とはだれか。
 幹部でも、執行部でもない!
 正義を愛する名もなき「母」である!!



  わが母よ
  偉大なる創価の母よ!

  人生の悲しみや苦しみに
  じっと耐え抜き
  一歩、また一歩と
  困難を切り開く
  そこにはいつも
  あなたの笑顔があった

  宿命に立ち向かい
  同志のために
  師のためにと
  不屈の祈りを重ねる母よ

  民衆を苦しめる悪に対しては
  毅然と声を上げる
  正義の母よ

  あなたの祈りが
  私を鼓舞し
  あなたの声が
  私の勇気を呼び覚ましてくれる

  ゆえに今こそ
  われは母のために
  偉大なる創価の母のために
  あなたが敬愛する師を
  我が命をかけて
  護り抜いて見せる!
  それが
  母への恩に報いる
  正義の道だと信じて!!







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プロフィール

Author:元創価学会職員3名
小平秀一
平成7年3月、創価高校を卒業。
平成11年3月、創価大学を卒業。
平成11年4月、宗教法人創価学会に入職。
平成24年10月、宗教法人創価学会を懲戒解雇。
平成26年6月、創価学会を除名。

滝川清志
平成12年3月、創価大学を卒業。
平成12年4月、宗教法人創価学会に入職。
平成24年10月、宗教法人創価学会を懲戒解雇。
平成26年6月、創価学会を除名。

野口裕介
平成14年3月、東海大学を卒業。
平成14年4月、宗教法人創価学会に入職。
平成24年10月、宗教法人創価学会を懲戒解雇。
平成26年6月、創価学会を除名。

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