第10 制裁的な配置転換を行なう学会本部(H22.11~H23.1)

「“千里の道も一歩から”である。その“一歩”に“千里”が含まれている。次の“一歩”また“一歩”ごとに夢が現実に近づいていく。大事なのは足元である。歩みを止めないことである。」(名誉会長指導)

「人間、何が幸せか。一日一日、『きょうも、やり切った』『きょうも悔いがない』『きょうも、私は勝った』という行動を重ねることだ。毎日、自分として“これでよし”と言えるよう、精いっぱいの努力で生きる。その積み重ねが、大勝利の人生となる。平凡なようだけれども、これが人生の『王道』であり『王者の道』である。」(名誉会長指導)

人間の幸福は
小さな一歩から 目の前の一歩から
すべては始まる

始めの一歩を踏み出す勇気
次の一歩を進めようとする祈りと行動
その積み重ねこそ
夢と理想を叶える原動力なのだ!

歴史を創りゆく開拓者の人生もあれば
友のために生きゆく尊き青年の人生もある
子を立派に育てゆく偉大なる母の人生もある
いかなる人生も
悔いなく一日を勝つことから始まる
日々の努力の積み重ねの中に
人間王者としての 大勝利の人生があるのだ!

君よ!
自分らしく 自己の本分に生き抜くのだ!
胸中の師に「今日も勝った!」と報告しゆく
悔いなき日々を勝ち取るのだ!
師の理想とする創価を築きゆくのは
弛まず前進する あなた自身であることを
忘れてはならない!


 平成22年11月、野口の四国行きが決まる。
 異動日は、平成23年2月。これで本部指導監査委員会の提示した誓約書に誓約できなかった本部職員は学会本部から4人ともいなくなり、地元である神奈川に残るのは滝川だけになる。
 滝川は、会員たちが不当な目にあっている実態を目の当たりにし続ける自分の使命をいやが上にも自覚することになる。
 2年前、神奈川執行部で本部職員の福井総県長は、私たちが誓約できない理由を聞くと、「君たちは100%正しい」と言った。それにも関わらず、神奈川執行部は、「本部の決定だから」と会員たちに誓約を迫り、謹慎処分(さらに謹慎処分延長)、そして役職解任処分と3度の処分を決定、通知した。
 神奈川執行部は、会員たちが間違っていないことを知っている。しかし、最終的に「経緯はどうあれ、学会本部の決定に従わないことが問題」との理由で会員たちに非があると判断したのだ。
 そこには、学会の公式機関が下した判断だから、正しい(従うしかない)、との欺瞞に満ちた判断があった。これこそが本部職員に巣くう官僚主義の最たるものであると感じていた。

 神奈川に残る自分の戦いは、会員たちの真実を語ることである。
 自分が語らずして誰が語るのか!
 滝川は、会員たちが平成21年4月1日付けで全役職解任処分され、一会員として活動できるようになった以降も、地元組織でレッテルを貼られ、不当な扱いを受け続けていることを見聞きしてきた。
 会員兵庫氏は、地元組織から「創価学会の決めたことを守れない人だから、組織からは励ましてはいけない、人材育成してはいけない、できれば声をかけてもいけない」と徹底されていることを聞いた。
 時が流れれば、問題は過去のこととして忘れ去られる。そして、“連絡が無く学会活動に参加することができない”会員は、次第に“学会活動に参加しない会員”とされ、忘れ去られていく。犠牲になった会員は、闇に葬り去られる。

「誤解が誤解のままであれば、『真実』は葬り去られてしまう。誤解を放置しておくことは、『正義』の死を意味する。」(名誉会長指導)

 滝川は、神奈川創価学会の実質的な最高責任者である高知副会長に、誓約しなかったことで会員たちがすでに処分を受けたにも関わらず、その後も現場組織で不当な扱いを受けていることを相談しようと思った(会員たちは、謹慎処分、謹慎処分延長そして役職解任処分が下される際、「創価学会の機構では、会長と方面長(高知副会長)は同格です」との説明を受けている)。
 自分ができる一歩を踏み出す以外に道は開かれない。

 平成22年11月30日朝、滝川は高知副会長に電話し、「個人的に相談したいことがあり、是非一度、面談の場を持ってもらえないでしょうか」とお願いする。
 すると高知副会長は、「はい、分かりました」と二つ返事で快く面談を了承。平成22年12月17日14時から神奈川文化会館で、面談の予定が決定する。

 そして、高知副会長との面談当日の朝、滝川の職場に一本の電話が入る。高知副会長からだった。内容は一点、「今日の件ですが、本部指導監査委員会に関係する内容でしたら、その場で帰って頂きますので、その点宜しくお願いします。」と。
 言い終わるや否や、滝川が返答する間もなく電話はプツッと切られる。
 受話器を持ったまま滝川は唖然とする。
 高知副会長には、具体的に何を相談したいのかはまだ伝えていない。なぜ、ここまで監査の話が出ることを警戒するのか、理解できない。
 高知副会長が、対話する前から自分に対して警戒していることを思うと、残念に感じてならなかった。

 同日、指定された14時前、滝川は神奈川文化会館2階にある事務所に入り、席に座っている高知副会長のもとを訪れる。
 高知副会長は、事務所の中央にあるテーブルに滝川を案内する。
 滝川は、現場組織で、会員に座談会だけでなく本幹など会合の連絡が一切来ないこと、他の会員に「声をかけてもいけない」と徹底されていることを伝えた。
 すると高知副会長は、「当然だ!『解任』になった人間なんだから、皆怖がって会合の連絡なんか出来るわけがないだろ。当たり前のことだ!」と。

 滝川はその言葉に衝撃を受けた。そして怒りに体が震えた。
 なぜなら、高知副会長は、1年9ヶ月前の平成21年3月31日の役職解任処分の通知の際、以下のように話していたのだ。
 「一会員として、今後の活動については、しっかりと取り組んでいって頂きたい」と。
 その時の発言とはあまりに真逆な発言だった。副会長であり神奈川最高責任者という責任ある立場にありながら、あまりに無慈悲、そして無責任な言動ではないかと思ったのだ。

 滝川は尋ねた「高知さんは一度でも地元組織で不当な仕打ちにあっている当事者の話を聞いたことがあるのでしょうか。ないではないですか。高知さんが解任を決めたのではないですか。」と。
 高知副会長、「解任は私が決めたのではない。学会本部が決めたんだ。」
 会員に通知した責任者が責任回避。滝川はまさにこの思想、この体質と戦っているのだと感じてならなかった。
 滝川は高知副会長を見つめ語った。「解任通知の際、高知さんは『私は会長と同格の権限を持っている』と前置きして、『解任する』と仰っていました。」
 高知副会長、「委員会が解任を決めたんだ。私ではない。解任は人事委員会の皆で決めて、最後に本部が了承したんだ!本部に則ってやったんだ。」
 滝川は意を決して質問する。「高知さんは一度も話を聞いていないのに、なぜ解任を決めることが出来たんですか。責任者として高知さんが当事者の話を聞かずに解任を決めたことは果たして先生が正しいと仰るのでしょうか。」と。
 高知副会長は即答する。「正しいと仰るよ」
 滝川は高知副会長の何も感じていない言葉に困惑した。
 そして、伝え抜くんだと思い語り出した。「私はそうは思えません。会員が職員の問題により犠牲になっている事実がある限り、話を一度も聞かずに解任する行為は間違っていると思うのです。」と。
 すると高知副会長の顔つきが変わった。突然声を荒げ、「帰りなさい!業務命令だ!帰りなさい!」と、そのまま面談は終了となった。

 高知副会長が、一度も会員たちの話を聞かずに下した謹慎処分、役職解任処分によって、地元組織では会員を不当に扱う問題が発生している。会員は誓約しなかったことによる処分に、悔しさを抱えながらも、処分を受け入れ、そして罰を受けた。しかし、それでもなお、組織で不当に扱われている状況があるのだ。
 全く対応しようとしない高知副会長の姿は、あまりに無責任かつ無慈悲であり、あってはならないことである。興奮して話を終わらせられてしまう悔しさと、会員を救えない自身の力のなさに涙が込み上げた。

「無責任な人間は、敵よりも始末が悪い。」(名誉会長指導)
「無責任な傍観者、威張った官僚主義者が増えれば、学会の内側は滅びる。」
(名誉会長指導)

 みな自分の信仰者としての責任が問われると、都合よく「本部が決めた」、「委員会が決めた」と、責任の所在は曖昧になり、決定に関与した人間は組織の陰に隠れていく。
 そこにはもはや自分が決定したとの意思はなくなり、良心の呵責を感じることもなくなっている。まるで“自分は組織決定に従っているまでだ。だから自分は正しいのだ”とさえ言わんばかりである。
 今の本部職員の中に、こうした無責任体質が蔓延している。本部を変えたい。いや変えねばならない。一刻も早く変えねば、さらに多くの会員が犠牲になると思えてならなかった。
 やはり学会本部の最高責任者である原田会長と話をしなければ、学会本部と本部職員の問題の根本解決は難しいと痛感したのである。

 原田会長との懇談のアポイント申請に対する返答

 もう一方で、私たちは平成22年11月16日に出した原田会長との懇談のアポイント申請に対する返答を待っていた。原田会長に言われた通りに、懇談のアポイント申請をしたにも関わらず、3週間が過ぎても何の連絡もない。

 同年12月6日午後、小平は徳島部長に電話し、会長面談のアポイントの確認をする。
 すると徳島部長から、「調整はしたが年末年始で(原田会長の)スケジュールは一杯で厳しい」、「また改めて申し込んでほしい」との返答。
 小平は、先日学会本部を訪ねた際、原田会長から直接、「役員室でスケジュール調整をしているからアポイントをとってください」と言われた事情を話し、何とか年内にお願いできないかと必死に懇願する。
 しかし、徳島部長は、「だから調整したんだけど、調整がつかなかった」と話す。そして、「急ぎの内容なら会長に直接手紙を書いたらどうか」と提案した。
 小平は「会長宛に書けばいいのでしょうか?」、「徳島さんから会長に直接渡してもらうこともできますか?」と聞く。
 徳島部長は、「それは構いません。私宛に送ってもらえば私から会長に直接渡します」と答えてくれた。

 原田会長の年末年始のスケジュールが一杯ならば仕方がない。一刻も早く原田会長と面談したいという焦る気持ちを抑える。時に忍耐することもまた勇気だと思った。
 何とか、原田会長との懇談を実現させたい。年が明けたら、もう一度、懇談のお願いをさせて頂こうと決意する。
 歩みを止める訳にはいかない。止まっているように見えたとしても、着実に目の前のやるべきことを進めていくしかない。

 小平に対する九州の最高責任者である愛媛副理事長の対応

 平成22年12月、小平が九州に来て、8か月が経とうとしていた。
 小平は、職員局責任役員のB副会長から、「人事戦略プロジェクトで検討を重ねてきた方面との交流人事で、個人の業務スキルアップも目指す」と言われて九州に来た。
 しかし、九州青年部長からは「君の話は完璧に聞いている」、「まずは生活と仕事だ。時間はかかるが信用されるようになれ。」と言われ、事実上、謹慎処分状態となっていた。学会本部から言われていたことと、現場の扱いには食い違いがあるように感じてならなかった。
 信用を勝ち取るため、仕事を真剣にやってきたが、小平は学会活動ができない現状に悩んだ。そして、学会本部が方面の九州幹部に対し、自分のことをどのように伝えているのか気掛かりだった。
 もしかしたら、九州の最高責任者である愛媛副理事長は、小平が体験した一連の問題について何も知らない可能性がある。そしてもし、誤解をしている部分があるならば、その誤解を解きたいと思った。

 小平は、平成22年9月から愛媛副理事長に面談のお願いをし、3か月後の平成22年12月9日、愛媛副理事長から「12月15日10時から面談をしましょう」との連絡があった。

 同年12月15日10時前、小平は早めに九州文化2階の会議室に到着し、愛媛副理事長が来るのを待つ。
 しばらくして、愛媛副理事長が某九州方面長とともに入ってくる。
 小平、「ご挨拶もちゃんと出来ていませんでしたし、お話しもさせて頂きたいなと前から思っていまして。よろしくお願いします。」と丁重に挨拶する。
 そして率直に、「4月から九州に異動で来たんですが、学会本部からどのように伺ってらっしゃるのかなと思いまして」と尋ねる。
 愛媛副理事長は、「率直に言うと、学会本部からは当然、経緯のあらかたについては聞いています。君が今日まで監査委員会にかかって。もう数年前から君が地元の学生部長をしていた時代のころの史実だな。」と話す。
 そして愛媛副理事長は続けて話す「それと同時に、その前提で、君が九州で職員を続けるのであれば、再出発の道を歩む意思があるのであれば、君も未来ある青年だから、白紙で見守っていきたいという思いがあって、九州に受け入れたんだよ。」と。

 小平は耳を疑った。学会本部での配転内示と人事発表の際、青森副会長から聞いた話と明らかに違う内容である。
 本部では、青森副会長から、「人事戦略プロジェクトで検討された『人事交流』『業務交流』の異動である」と説明された。その後、職員人事委員会委員長の大分職員局長に確認しに行った際も、「一連の組織の問題とは一切関係ない人事」だと伝えられていた。
 しかし、愛媛副理事長の話では、小平の九州配転は、“小平には、九州で「再出発」をしなければならない理由(問題事由)があり、小平が「再出発」することを望んだからこそ、九州が白紙で受け入れた”ことになっていた。
 まるで、流罪者のような扱いである。
 青森副会長の「個人の業務のスキルアップを目指す業務交流人事」との説明は、ただ表面を取り繕った後付けの理由であった。
 小平の配置転換は、“制裁人事”であったことが明らかとなったのである。

 さらに愛媛副理事長は話を続ける。
 「むしろ僕の方から君に聞きたい。これまでの経緯を。一度も聞いたことねえから。」と。
 小平は懸命に事の経緯を話す。しかし、愛媛副理事長にはなかなか伝わらない。先入観が強いように感じてならなかった。
 しばらくすると、愛媛副理事長はこれから来客があるから、面談を終わりにするという。そして、小平の思いを書面にしてもらえれば、それを読むと。
 小平は、「わかりました。書面を書かせて頂きます。その書面をもとに懇談をお願いします。」と伝える。
 愛媛副理事長、「わかった。またやろう。書面はゆっくりでいいよ」と。

 小平は九州の住まいに戻り、愛媛副理事長との面談を振り返る。
 方面組織(幹部)が、中央本部(幹部)の意見をすべて鵜呑みにしてしまう体質をいやが上にも感じる。だからこそ、率直な対話が大事になってくる。胸襟を開いた対話でしか道は開けない。
 勇気だ!すべて勇気をもって語るんだ!
 早速、愛媛副理事長への書面の作成に取り掛かる。何とか、愛媛副理事長に真実を知ってもらわなければならない。
 小平は、これまで本部指導監査委員会や原田会長に提出してきた書面の内容を見返し、連日連夜、必死になって書面作成に取り組む。

 愛媛副理事長への書面にはこれまでの経緯とともに自分の思いを書き綴った。
 「私は自身の解任処分について、後悔は一切ありません。問題が起こってからのこの9年間の戦いを通し、師匠と法に守っていただいたことに感謝の思いしかありません。しかし、未だに無実の会員が、あの監査の結論によって反逆者のように扱われ苦しめられ、犠牲になっている現状があるのです。先生は『師匠を守るということは具体的に会員を守るということだ』と教えて下さいました。無実の会員を苦しめる事だけは、断じてあってはならないと思うのです。どんなに組織が大きくなろうとも、一人の会員を徹して守ってこそ創価が守られると思うのです。会員に尽くしぬくことが職員の使命だと思うのです。」と。

 平成23年1月11日夜、九州文化2階事務所の愛媛副理事長に書面を届ける。愛媛副理事長は書面を受け取り、その場でざっと目を通す。
 しばらくすると、愛媛副理事長は小平が渡した書面から一旦目を離し、机から、おもむろに「2枚の書面」を取り出す。
 そして、「私は本当に客観的な内容しか聞いてないんだよ」と言いながら、小平にその書面を手渡す。
 そこには、“公平厳正に監査が行われたが一部の人間が納得せず、結論である誓約書に誓約しなかった。その後、何度も指導したが、聞き入れなかったため謹慎処分となり、2回勧告したが聞き入れなかったため、解任処分となった”と書かれていた。
 小平が九州文化会館に異動してきた時に、学会本部から愛媛副理事長に通知されたものであったのだ。
 小平はその書面に動揺した。
 “公平厳正な監査”ならば間違いなく会員たちは、誓約書に誓約し、平穏無事に終われた。しかし、誓約を拒否し、その拒否による罰を受けることを望んだ。そのやむにやまれぬ会員たちの決断は一体なんだったのか。「自分の人生を作ってくださった師匠だけは絶対に裏切らぬ」と涙を浮かべ、処分通知に臨んだ会員たちの判断は、一体なんだったのか!!
 小平は動揺しながらも、その「2枚の書面」を見終わると、愛媛副理事長に返し、「私の書面を読んで頂き、また面談をよろしくお願いします」と頭を下げ、その場を後にした。

 本部の結論が正しいとの前提で書かれた「2枚の書面」。何としても、愛媛副理事長に事実を知ってもらうしかない。書面を読んでもらい、再度の面談を実現するんだ。正義は誰か、弟子は誰なのか、絶対に語り抜くんだ。創価は断じて会員のためにある!!
 小平は、愛媛副理事長からの連絡を待つことになる。

 野口が四国へ異動

 野口は、平成22年12月15日、小平から愛媛副理事長との面談の様子を聞き、自分の四国への配置転換が制裁的人事であることは、ほぼ間違いないと感じた。
 学会本部は、自分を四国に異動させ、本部の決定に従わない限りは本部に戻さないつもりだ。
 しかし、自分が出会ったこの問題から逃げるつもりはない。不当な扱いを受け続けている会員たちを、裏切ることは我が命をかけてもすることはない。これまで以上に声を大にして叫ばなければ、自分が体験してきた一連の問題は風化され、師匠の耳に届かず蓋をされてしまうことを感じてならなかった。

 師匠に繋がる道は側近である山梨女史しかいないと思った。野口は平成22年12月12日に、2通目の手紙を出していたが、返事はなかなか来なかった。
 野口は必死に祈り、待つ。しかし、1週間が経ち、2週間が経っても連絡はない。山梨女史への手紙には、本部職員による人事の不正、その不正を隠す学会本部の不正、そして、それらの問題について一度も話を聞かない本部執行部の問題について書いてある。
 山梨女史は、どう対応するべきか、悩み葛藤されているのではないかと感じられた。
 平成22年12月末、野口は、小平、滝川、茨城氏の3人に相談をする。
 「小平の愛媛副理事長との面談から、自分たちに対する地方への配転命令が、制裁的人事であることは明らかだと感じる。ならば、一刻も早く師匠にご報告できる道を切り開くためにも、師匠の側近である山梨女史に制裁的人事のことをお伝えした方が良いのではないか。」と。
 同志たちは、賛同した。

 必死に祈り、山梨女史に3通目の手紙を書くのである。

「人生は戦いである。断じて、あきらめない。断じて、立ち止まらない。
どこまでも走り続けた人が勝つ。執念を燃やし続けた人が勝つのだ。」
(名誉会長指導)

 山梨女史への3通目の手紙には以下のように書き綴った。
 「会員が苦しんでいるのです。職員の姿勢を指摘し解任となった会員さんは本当に悪くないのです。創価学会は会員のためにあるはずだと思うのです。会員が苦しんでいるにも関わらず、なぜ一度も話を聞いて頂けないどころか、人事というやり方で無かったことにしてしまおうとするのか。」と。
 そして、「どうか、私たちの手紙に対してお返事を頂くことはできないでしょうか。無理ならば無理と一言でもお伝えして頂きたいのです。師匠は、私たち弟子の一人ひとりがどう行動するのかじっと見られていると思うのです。
 山梨様、私たちの思いを汲み取って頂ければこれほど、これほど嬉しい事はありません。何卒、何卒、宜しくお願い致します。」と。
 平成23年1月19日、山梨女史宛ての手紙を郵送する。
 
 それとともに、原田会長との懇談のアポイントを何としても取りたい。1度目は、年末のスケジュール調整がつかず、叶わなかった。必死に2度目のアポイント申請の手紙を書き進める。
 何とか2月1日付けで四国へ発つ前に、アポイント申請書を徳島部長に手渡したい。
 対話が閉ざされた本部では、組織の硬直化が進む一方だと感じてならない。師の築かれた会員のための創価を護りたい、何とか原田会長との対話を実現し、誤解があるならば解かせて頂きたい。不当な扱いを受けている会員たちの無実をお伝えしたい。

 率直な思いを原田会長宛ての手紙に書き綴った。
 「私たちがお願いしたいのは、ただただ話を聞いて頂きたいということなのです。一度でいいから話を聞いて頂きたいのです。話を聞いて頂いた上で『主張だけをする人間の話は聞けない』という判断になってしまったのであれば仕方のないことだと思っております。ただ、一度も話を聞いていただけていない中で『対話はできない』とすることが、どうしても理解できないのです。」
 「真剣に祈り、振り返れば、振り返るほど、自身の至らなさはあったとしても、この問題について『話を聞いて頂きたい』と懇願することが間違っていることだと思えないのです。会員の幸福を目的とする創価の世界にあって、会員が解任となった経緯を会長に聞いて頂きたいと懇願することが間違っていることだと思えないのです。」
 そして、手紙の最後には、
 「原田会長、どうかたった一度でいいのです。真っさらな状態でお話を聞いて頂くことはできないでしょうか。何を反省すべきかをお伝えして頂くことはできないでしょうか。師匠は、私たち弟子の一人ひとりがどう行動するのかじっと見られていると思うのです。」と。

 平成23年1月28日金曜日、野口が学会本部に出勤する最後の日。原田会長宛の手紙を携えて、役員室事務局がある本部別館へと向かう。
 すぐに徳島部長は1階ロビーまで降りてくる。
 椅子に座り、野口が「今日が最後の本部出勤です」、「四国に異動になりますので、今日どうしてもお願いしたくてきました。なんとか会長にお願いします」と手紙を差し出す。
 徳島部長は、「分かりました。これは会長に届けます」と約束する。
 野口は、「宜しくお願いします。四国に行っても全力で戦います!」と伝え、エレベーターに乗る徳島部長を見送った。

 職場に戻り、最後の仕事をやり終えた野口は、事務所に置いてあった自分の荷物を段ボールに詰め込むと、上司や同僚に最後の挨拶をして回る。同僚の女性職員からは、「新婚なのに、あり得ない人事ですね」と言われ、前の職場の先輩からは、「青森副会長もひどい事をする。絶対におかしいよ」と伝えられる。
 皆、本心では分かっている。しかし、表立って声をあげることはしない。
 自分は自分が正しいと信じる事を一歩ずつ続ければ良いのだ。師匠に喜んで頂ければ、それでいいのだ。師匠さえ分かって頂ければ。
 約10年勤めた学会本部の最終出勤日。野口は、師が居られるであろう本部を見つめながら思いを馳せた。「正義のために勝て!」師から頂いた言葉が蘇ってくる。苦しい時も辛い時も支えて頂いた師匠の御心に涙が込み上げた。感謝に涙が止まらなかった。そして、野口は「断じて正しいと信じることを貫きます!」と心で叫び信濃町を後にした。
 
 平成23年1月30日の夜、野口は羽田空港に向かう。見送りに駆け付けてくれた会員同志や家族の顔には、怒りと悔しさが溢れていた。自分の問題を我が事のように捉えてくれる、その同志の心に涙が込み上げて来る。
 「自分は絶対に負けません!断じて本部の実態を師匠にお伝えし、必ず勝って戻ってきます!」と伝え、搭乗口へと向かう。ずっとずっと手を振ってくれた。涙を流す会員同志もいた。本当に、本当にただただ感謝しかない。
 自分は師匠と会員同志のお陰で生きている。師の築かれた創価を護るため、会員の無実を証明するために前に進むのだ!
 野口は、本部職員の不正人事によって苦しめられた学生部の時に、師から「正義のために勝て!」との言葉を頂いた。この師の叫びを我が誓いとし、野口は故郷の神奈川から新たな四国の地へと発ったのである。






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プロフィール

Author:元創価学会職員3名
小平秀一
平成7年3月、創価高校を卒業。
平成11年3月、創価大学を卒業。
平成11年4月、宗教法人創価学会に入職。
平成24年10月、宗教法人創価学会を懲戒解雇。
平成26年6月、創価学会を除名。

滝川清志
平成12年3月、創価大学を卒業。
平成12年4月、宗教法人創価学会に入職。
平成24年10月、宗教法人創価学会を懲戒解雇。
平成26年6月、創価学会を除名。

野口裕介
平成14年3月、東海大学を卒業。
平成14年4月、宗教法人創価学会に入職。
平成24年10月、宗教法人創価学会を懲戒解雇。
平成26年6月、創価学会を除名。

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